旬をお届け 今月の成田山 成田山の「今」の情報をお届けいたします。
江戸出開帳

第10話
開帳場を訪れた随筆家十方庵敬順

文政4年の御開帳を画いた「成田山開帳之図」(成田山霊光館蔵)

江戸時代は平和が長く続いたことで、庶民でも旅行や観光が手軽に楽しめる時代になりました。江戸っ子も各地の観光名所を訪ね歩き、その見所を記録に残しています。
江戸後期のことです。東京都文京区小日向にあった廓然寺の住職で十方庵敬順という僧侶がいましたが、文化9年(1812)から悠々自適な隠居生活に入ります。江戸や近郊の観光名所を廻り、その折に見聞した諸々を紀行文として書き残しました。その題名を『遊歴雑記』と言います。
敬順は同10年(1813)と11年(1814)に成田山に参詣し、その紀行文を『遊歴雑記』に載せていますが、今回は文政4年(1821)江戸出開帳の記述をご紹介しましょう。
開帳場には、金5両から30・50両までの奉納金額が書かれた札、奉納された米俵、醤油樽などが、ところ狭しと並んでいました。札には奉納した町の名前が書かれていましたが、それを番付にして刷り上げたものが境内で参詣者に売られたそうです。
掲載料を取って、番付に名前を載せたわけです。奉納側としては、自分が成田山を厚く信仰していることをアピールできるメリットがありました。
開帳場が置かれた永代寺の境内には成田山出開帳をあてこみ、見世物小屋も数多く立ち並んでいました。なかでも、落語の「らくだ」にも登場する「カンカン踊り」の人気は凄まじいものでした。
カンカン踊りとは、前年の3年(1820)に長崎の中国人から伝えられ、江戸や大坂で大流行した唐人踊りのことです。唐人の衣裳を付け、鉄鼓や胡弓などの中国楽器に合わせて、歌い踊りました。
出開帳直前の2月に葺屋町(現中央区日本橋人形町)の河岸で興行されたカンカン踊りに、オファーを掛けたのです。その人気も相まって、開帳場にはさらに大勢の参詣客が押し寄せることになりました。
『遊歴雑記』という紀行文からは、成田山と「カンカン踊り」の相乗効果の様子が窺い知れるのです。
(2017年10月1日/安藤優一郎・文)

第9話
開帳場を訪れた国学者喜多村信節

『嬉遊笑覧』昭和7年に第5版が出版された(国立国会図書館蔵)

開帳場とは現代風に言うとイベント会場であり、好奇心の強い人々が集まってくるのは今も江戸も変わりはありません。作家たちも訪れ、その様子を作品に書き残しています。
開帳に関するリアルタイムの記述の数々は貴重な見聞録であり、開帳研究に資するところは非常に大きいと言えるでしょう。そんな記述を通して、開帳場の様子を復元してみます。
江戸後期の国学者で考証家でもあった喜多村信節(きたむら・のぶよ)という人物がいました。江戸で町年寄を勤める喜多村彦右衛門の弟として、天明3年(1783)に江戸で生まれます。町年寄とは江戸八百八町を統轄する町人で、樽屋・奈良屋・喜多村の三人が世襲で勤めました。
信節は古今東西の事柄に通じた博覧強記の人でしたので、その該博な知識に基づき江戸時代の風俗を考証しています。天保元年(1830)には、江戸風俗の百科事典として今も高く評価される『嬉遊笑覧』を刊行しましたが、同書では成田山の出開帳が次のとおり紹介されています。
信節によれば、自分が幼少の頃に見た成田山の出開帳では、蠣殻で作られた竜が奉納されていたそうです。寛政元年(1789)出開帳時の光景を指しているのでしょう。
江戸後期に入ると、貝、瀬戸物、籠、麦藁、ギャマンなどで作られた精巧な細工見世物が開帳場で人気を呼ぶようになりました。開帳場は進行の場であるだけでなく、職人たちが技巧を競う展示場となっていたのです。信節が見た蠣殻で作られた竜の細工物は、それだったのでしょう。
また、江戸で開帳を執り行う寺社で常に参詣者が群集するのは、善光寺の阿弥陀如来、嵯峨清凉寺の釈迦如来そして成田不動とも書いています。信節が生まれてから『嬉遊笑覧』を刊行するまで、寛政元年、文化3年、同11年、文政4年と4回も、成田山は出開帳を執り行っています。
『嬉遊笑覧』の記事から、いずれの回も成田山の出開帳は参詣者で溢れかえっていたことが分かるのです。
(2017年9月1日/安藤優一郎・文)

第8話
浮世絵師歌川国貞と出開帳

成田山開帳役者参詣の図(成田山霊光館蔵)

前回は開帳場を訪れた歌舞伎役者について取り上げましたが、参詣する役者たちを描いた錦絵は数多く残されています。
天保4年(1833)江戸出開帳をテーマとした「成田山開帳役者参詣の図」では、市川海老蔵(七代目團十郎)、尾上菊五郎、坂東三津五郎、澤村訥升など名立たる役者たちが開帳場を参詣した様子が描かれています。この錦絵の作者は、初代歌川国貞の弟子に当たる歌川貞秀でした。
今回は、江戸出開帳を描いた浮世絵師に注目します。
国貞は初代歌川豊国の弟子ですが、旺盛な制作意欲により数多くの作品を残しました。後に師匠の名前を継いだことで、三代目豊国とも呼ばれます。 
江戸時代最後の出開帳は安政3年(1856)ですが、その時の様子を国貞は豊国として描きました。「成田山開帳参詣群集図」「東都深川八幡宮於社地 成田山不動尊開帳群集図」が主な作品です。
この年の出開帳を描いたのは、国貞だけではありません。国貞の弟子である国郷は「成田山開帳参詣群集之夕景」、妖怪絵で知られる歌川国芳の弟子である芳晴(春)も「成田山開帳参詣之図」を描きました。
歌川一門の人気浮世絵師たちにより描かれることで、成田山の出開帳が江戸っ子の間で大いに話題になったことは言うまでもありません。江戸の出版メディア界をリードしていた浮世絵師たちは、成田山のメディア戦略の一翼を担っていたのです。
ちなみに、出版界の大物も成田講の世話人を勤めていました。「尾張屋版」として知られる江戸切絵図の版元である尾張屋清七は、芝神明前の明治講という名の成田講の世話人でした。
浮世絵に象徴される江戸の出版メディアも、成田山出開帳の情宣活動で果たした役割は大きかったのです。
(2017年8月1日/安藤優一郎・文)

第7話
歌舞伎役者中村勘三郎と出開帳

中村座舞台開狂言仕初之図(国立国会図書館)

成田山と歌舞伎と言えば、成田屋こと市川團十郎の名前が頭に真っ先に思い浮かびますが、成田山と縁のある歌舞伎役者は他にも大勢いました。元禄16年江戸出開帳の際、奉納者名簿に名を連ねた歌舞伎関係者には、山村座の座元山村長太夫や役者の生島新五郎たちがいます。
そして、團十郎とともに江戸歌舞伎の代表格である中村勘三郎も、元禄以降の江戸出開帳の奉納者名簿に名を連ねました。
江戸の歌舞伎界の歴史について少し見ていきましょう。
寛永元年(1624)に京都から江戸にやってきた猿若勘三郎という人物が、現在の中央区京橋の地で幕府の許可を受けて興行をはじめたのが、江戸歌舞伎の濫觴と伝えられます。当初は猿若座と称しましたが、後に中村座と改称します。慶安4年(1651)、中村座の芝居小屋は現在の日本橋堀留町を経て、日本橋人形町に移転します。当時は堺町と言いました。
猿若勘三郎すなわち中村勘三郎は役者であると同時に、中村座の座元も兼ねていました。座元とは興行主のことですが、幕府から興行を公認された芝居は江戸三座と呼ばれました。中村座のほか市村座と森田座を合わせて、江戸三座です。
文化11年(1814)江戸出開帳の際の奉納帳をみると、「堺町中村座 勘三郎」の名で金二百疋と提灯一対、「堺町中村座役者共 世話人甚兵衛」の名で提灯が七十八張奉納されています。
座元の勘三郎と中村座に所属する役者たちにより奉納された提灯には、中村座の名前が踊っていたことでしょう。中村座の面々も訪れた開帳場は、あたかも歌舞伎の世界がそのまま移ってきたような空間でした。 
團十郎はもちろん、中村座からの強力なバックアップも成田山は受けていたのです。
(2017年7月1日/安藤優一郎・文)

第6話
豪商紀伊国屋文左衛門と出開帳編

江戸時代の深川木場を描いた「東都花暦 木場ノ魚釣」 (国立国会図書館蔵)

成田山は江戸の商人から、物心両面からの強力なバックアップを受けていましたが、歴史にも名前をとどめる商人として豪商紀伊国屋文左衛門の名前は外せません。
成田山最初の江戸出開帳は元禄16年(1703)4月のことですが、元禄時代の象徴たる
紀伊国屋文左衛門も奉納者名簿に名を連ねています。金10両と屏風1枚を奉納しています。
文左衛門と言うと、紀州和歌山からミカンを船で運んできたことで巨利を得た人物として知られますが、それは伝説に過ぎません。以下その実像をご紹介していきましょう。
文左衛門はもともと、八丁堀に店を構える材木商人でしたが、幕府の材木御用達に登用されたことが飛躍のきっかけとなります。江戸城の御殿修復などに必要な材木の納入を請け負ったことで、莫大な利益を手に入れることに成功します。
なかでも、将軍の菩提寺である寛永寺根本中堂の造営用材の調達を請け負った際には50万両もの巨利を得たと伝えられます。現在の貨幣価値に換算すると、500億円に相当するでしょう。
その裏では、幕府実力者による強力な「引き」がありました。綱吉の信任が厚く、20年以上も老中を勤めた武蔵忍藩主阿部正武の引き立てがあったのです。阿部の配慮で、文左衛門は幕府の公共事業を優先的に請け負うことができました。
成田山をバックアップしていた佐倉藩主の稲葉正通も、阿部と同僚の老中でした。稲葉を通じた阿部からの働きかけもあって、文左衛門も奉納者に名を連ねたのでしょう。
深川は材木商人が集中する町でした。成田山の有力基盤となる深川の材木商人からの働きかけもあったに違いありません。
文左衛門は晩年、深川に移り住みます。富岡八幡宮の一の鳥居近くに隠棲しますが、まさしく開帳場が置かれた近くでした。
成田山の江戸出開帳で名を残した紀伊国屋文左衛門の墓所は、富岡八幡宮にもほど近い深川の一角に今もひっそりとたたずんでいます。
(2017年6月1日/安藤優一郎・文)

第5話
開帳場を訪れた諸大名編

東都深川富ヶ岡八幡宮境内全図(国立国会図書館蔵)

開帳場には大名の奥方だけでなく、大名当人も訪れることがありました。今回は天保4年(1833)の江戸出開帳を事例に、徳川一門の大名が訪れた時の様子を御紹介しましょう。
天保4年出開帳の話が持ち上がったのは、前々年の2年(1831)冬のことでした。深川で成田講の世話人を勤める商人の八文字屋や相模屋が、出開帳を願い出てきたのです。江戸出開帳は既に七回を数え、深川永代寺境内を会場とすることが定例となっていました。
永代寺の門前町として江戸有数の繁華街だった門前仲町ですが、当時は火事のダメージから中々立ち直れませんでした。客足が遠のき、商人たちは難儀していました。
そこで、深川の街を活性化させるため成田山の助力を求めたわけです。成田山が出開帳するとなれば、大勢の江戸っ子が押し寄せて活気が戻ることは間違いありません。復興の起爆剤として、出開帳を熱望したのです。
成田山も深川の街の要望に応え、出開帳を決めます。ただし、江戸で出開帳を執り行うには、幕府の寺社奉行所の許可が必要でしたが、首尾よく許可も下りました。
天保4年の江戸出開帳は3月20日よりはじまりましたが、二カ月の開帳期間中、大名も訪れています。徳川家一門の清水恒之丞という人物でした。
恒之丞は、徳川御三卿の一つ清水徳川家の当主です。徳川御三卿とは田安家・一橋家・清水家の三家で、将軍に跡継ぎがいない場合、将軍継嗣を出せるチャンスがありました。文政3年(1820)生まれの恒之丞は、時の11代将軍徳川家斉の21番目の子供で、まだ元服もしていない少年でした。
出開帳の開始日から一週間後の3月27日、恒之丞は永代寺内の八幡宮(現富岡八幡宮)と洲崎弁天(現洲崎神社)に参詣することになっていました。ちょうど、同じ永代寺の境内で成田山の出開帳が執り行われていたため、開帳場にも立ち寄ろうとしたわけです。
少年とはいえ、時の将軍の実子で徳川一門の当主でもあるため、成田山にも事前に通達がありました。成田山は準備万端整え、恒之丞を迎えます。
当日、恒之丞は成田不動を礼拝し、奉納金を納めました。成田山は5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の篤信をきっかけに、徳川将軍家とは深くつながっていましたが、その絆が再確認された日でもあったのです。
(2017年5月1日/安藤優一郎・文)

第4話
開帳場を訪れた大名の妻たち編

成田山開帳参詣群集図[一部](成田山霊光館蔵)

成田山は元禄の江戸出開帳を通じて、将軍の母桂昌院の篤信を得ましたが、これまで何のゆかりもなかった大名家奥方の篤信を得ることにも成功します。ここでも、領主であり幕府老中でもあった稲葉正通が奔走していました。
この出開帳で金品を寄進したお歴々の名前を列挙した帳面が、成田山には残されています。開帳場に出向いて成田不動尊を礼拝した人々が篤信の証として金品を奉納したわけですが、大名家奥方の名前も見ることができます。
具体的にみていきしょう。
まず、「御幡二掛 稲葉丹後守様御奥方様」とあります。佐倉藩主稲葉正通の正室から幡が二つ奉納されていますが、幡とは法要の場を荘厳供養する際に用いる旗のことです。続けて、「打敷一枚 同御局」とあります。正室付の御局からも、仏具などの敷物が一枚奉納されています。
次に、「御幡二掛 土井甲斐守様御奥方様」とあります。越前大野藩主土井利知の正室も幡を二つ奉納しています。利知の正室は正通の妹でした。
そのほか、伊勢長島藩主増山正弥、小田原藩主大久保忠増、豊前中津藩主小笠原長円の正室たちも幡や打敷を奉納していますが、長円の正室は正通の娘でした。徳川御三家筆頭尾張藩主徳川吉通の正室付の瀬川という奥女中からも打敷が奉納されています。
桂昌院は言うまでもなく、領主稲葉家以外の諸大名から篤信を得たことも成田山の格を高めました。その陰では、正通が姻戚関係を通じて成田不動尊の礼拝を勧めていました。
元禄の出開帳で正通の果たした役割の大きさが改めて確認できるのです。
(2017年4月1日/安藤優一郎・文)

第3話
桂昌院と成田山編

諸国名所百景下総国成田山境内[一部](成田山霊光館蔵)

成田山飛躍のきっかけとなった元禄の江戸出開帳の際、成田山はこれ以上ない栄誉に浴します。成田不動尊が江戸城に入ることが許されたのです。将軍徳川綱吉の母桂昌院からの懇望を受けた形でした。
桂昌院は3代将軍徳川家光の側室の一人で将軍となる綱吉を産みますが、仏教に厚く帰依した女性でもありました。寺院の新築や修復にも非常に熱心で、息子の綱吉を動かして東大寺大仏殿の再建活動を支援したのはその一例です。
その陰では、綱吉と桂昌院から厚い信頼を受ける真言宗の僧侶隆光が奔走していました。この時代、隆光の勧めにより生類憐みの令が布告され、犬が非常に大事にされたことは良く知られていますが、東大寺大仏殿再建の立役者でもあったのです。
成田山と隆光のつながりは良くわかりませんが、同じ真言宗ということもあり成田山の江戸出開帳にはたいへん好意的で、成田山と桂昌院を結びつける役割を果たします。隆光が語る成田不動尊の話に興味を示した桂昌院が礼拝を望むに至ったからです。
さすがに、桂昌院自ら開帳場に赴くことはできなかったため、成田不動尊が桂昌院のもとを訪れることになりました。貫首照範に守護された成田不動尊が桂昌院の生活する江戸城三の丸御殿に入ったのは、出開帳終了直後の元禄16年7月4日のことでした。
念願の礼拝が叶った桂昌院は成田不動尊に金品を奉納しましたが、将軍の母からの礼拝を江戸城内で受けた成田山の名前は全国に鳴り響くことになります。そうした栄誉に浴した裏では、隆光のほか成田山の領主でもある老中稲葉正通の奔走もあったと伝えられています。
江戸城に入り将軍の母からの礼拝を受けた事実は、おのづから成田山の格を高めました。江戸出開帳はもちろん、江戸城出開帳も成田山飛躍の大きな理由となったのです。
(2017年3月1日/安藤優一郎・文)

第2話
佐倉藩主堀田家と成田山編

1762年(宝暦12年)佐倉藩主堀田正順から下付された新勝寺の寺領安堵状(成田山霊光館蔵)

佐倉藩は領主の入れ替わりの激しい藩でした。稲葉家が佐倉藩主となる前、10回以上も藩主が交代していましたが、稲葉家も享保8年(1723)に山城の淀にお国替えとなります。稲葉家時代は約20年に過ぎませんでした。 代って淀藩主松平乗邑が佐倉藩主となりますが、延享3年(1746)正月にはお国替えとなり、山形藩主堀田正亮が佐倉に入ります。以後堀田家時代が長く続き、そのまま明治維新を迎えます。
堀田家が佐倉藩主時代の約120年の間に、成田山は8回にわたって江戸出開帳を執り行います。そこで、領主たる堀田家が果たした役割は非常に重要でした。
堀田家も稲葉家と同じく成田山を厚く信仰しましたが、江戸出開帳の時も支援を惜しみませんでした。出開帳を江戸で執り行うには幕府の許可が必要でしたが、十数年に一度の割合で執り行うことが幕府から許され続けた寺院は他に例をみません。
その裏では、老中をはじめ幕府要職者を輩出した譜代大名堀田家の政治力がモノを言ったはずです。そもそも、領主たる堀田家の許可を得なければ幕府に開帳を願い出ることはできませんでした。
堀田家も稲葉家の前例に習って開帳場に藩士を詰めさせましたが、成田村の村民も大勢開帳場に詰めています。出開帳の際には、成田不動尊を守護する大掛かりな行列が組まれましたが、その人数の大半は成田村の村民で占められていました。
江戸到着後は、そのまま開帳場の警備にも当たるため、三か月以上も村を留守にする形になります。これにしても、領主たる堀田家の了解なくして叶うことではありません。
佐倉藩の領民である成田村の人々も、いわば裏方として出開帳の成功に大きく貢献していたのです。
(2017年2月1日/安藤優一郎・文)

第1話
老中(佐倉藩主)稲葉正通と成田山編

広重画『成田土産道中名所 佐くらの入口かしま橋』(成田山霊光館蔵)

成田山が江戸で出開帳を執り行う時の会場は、深川にあった永代寺の境内でした。当時は永代寺境内に鎮座する形だった富岡八幡宮の社殿近くに、成田不動尊を安置する開帳小屋が建てられたのです。二カ月にわたる開帳期間中、開帳場はバラエティーに富んだ参詣者であふれ返りました。
今回から、江戸出開帳の会場を訪れた人々を12回にわたって解説していきます。

成田山が最初に江戸出開帳を執り行ったのは、元禄16年(1703)4月のことです。5代将軍徳川綱吉の治世も終わりに近づいていた頃ですが、綱吉を支えた老中の一人に稲葉正通という大名がいました。正通は3代将軍徳川家光の乳母春日局の曾孫にあたる人物です。
2年前の元禄14年(1701)6月、越後高田から下総佐倉へお国替えとなりました。佐倉藩主稲葉正通の誕生ですが、新領主として最も心掛けたのは領民の心を掴むことでした。
そのため、正通は領民たちが信仰する領内の寺社に対して、堂塔の修理や田畑の寄進をおこなっています。支援という形で崇敬心を示し、領民たちの心を掴もうとしたわけですが、なかでも成田山への支援は群を抜いていました。それだけ、成田山に対する領民からの信仰が厚かったからです。
最初の江戸出開帳の際の支援も並々ならないものがありました。これから何回かに分けてご紹介するように、成田山は将軍の母桂昌院や大名家の奥方からの篤信を得ることに成功します。こうして、開帳場には諸大名の寄進物が所狭しと並べられることとなりました。
開帳中、正通は稲葉家の家臣10名を毎日派遣し、開帳場の警備にあたらせます。正通はもちろん、家臣たちにとっても出開帳は成田不動尊との貴重な結縁の機会であり、成田山との結びつきを強く感じたことでしょう。開帳場は江戸っ子のみならず、佐倉藩からの篤信を得る場となっていました。
この元禄の江戸出開帳を機に、稲葉家では毎年正月、五月、九月の三回、成田山から護摩札を受けるのが慣例となります。出開帳の翌々年にあたる宝永2年(1705)には、成田村50石の土地を寄進しています。
成田山にとり、領主であり老中という幕府の最高権力者でもある稲葉正通からのバックアップを受けたことが大きかったのは言うまでもありません。成田山の飛躍は、元禄の江戸出開帳を通じて佐倉藩からの篤信を得たことにはじまるのです。
(2017年1月1日/安藤優一郎・文)

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今月の成田山

江戸出開帳を
支えた人々