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江戸出開帳

第5話
開帳場を訪れた諸大名編

「東都深川富ヶ岡八幡宮境内全図」(国立国会図書館蔵)

開帳場には大名の奥方だけでなく、大名当人も訪れることがありました。今回は天保4年(1833)の江戸出開帳を事例に、徳川一門の大名が訪れた時の様子を御紹介しましょう。
天保4年出開帳の話が持ち上がったのは、前々年の2年(1831)冬のことでした。深川で成田講の世話人を勤める商人の八文字屋や相模屋が、出開帳を願い出てきたのです。江戸出開帳は既に七回を数え、深川永代寺境内を会場とすることが定例となっていました。
永代寺の門前町として江戸有数の繁華街だった門前仲町ですが、当時は火事のダメージから中々立ち直れませんでした。客足が遠のき、商人たちは難儀していました。
そこで、深川の街を活性化させるため成田山の助力を求めたわけです。成田山が出開帳するとなれば、大勢の江戸っ子が押し寄せて活気が戻ることは間違いありません。復興の起爆剤として、出開帳を熱望したのです。
成田山も深川の街の要望に応え、出開帳を決めます。ただし、江戸で出開帳を執り行うには、幕府の寺社奉行所の許可が必要でしたが、首尾よく許可も下りました。
天保4年の江戸出開帳は3月20日よりはじまりましたが、二カ月の開帳期間中、大名も訪れています。徳川家一門の清水恒之丞という人物でした。
恒之丞は、徳川御三卿の一つ清水徳川家の当主です。徳川御三卿とは田安家・一橋家・清水家の三家で、将軍に跡継ぎがいない場合、将軍継嗣を出せるチャンスがありました。文政3年(1820)生まれの恒之丞は、時の11代将軍徳川家斉の21番目の子供で、まだ元服もしていない少年でした。
出開帳の開始日から一週間後の3月27日、恒之丞は永代寺内の八幡宮(現富岡八幡宮)と洲崎弁天(現洲崎神社)に参詣することになっていました。ちょうど、同じ永代寺の境内で成田山の出開帳が執り行われていたため、開帳場にも立ち寄ろうとしたわけです。
少年とはいえ、時の将軍の実子で徳川一門の当主でもあるため、成田山にも事前に通達がありました。成田山は準備万端整え、恒之丞を迎えます。
当日、恒之丞は成田不動を礼拝し、奉納金を納めました。成田山は5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の篤信をきっかけに、徳川将軍家とは深くつながっていましたが、その絆が再確認された日でもあったのです。
(2017年5月1日/安藤優一郎・文)

第4話
開帳場を訪れた大名の妻たち編

「成田山開帳参詣群集図」[一部](成田山霊光館蔵)

成田山は元禄の江戸出開帳を通じて、将軍の母桂昌院の篤信を得ましたが、これまで何のゆかりもなかった大名家奥方の篤信を得ることにも成功します。ここでも、領主であり幕府老中でもあった稲葉正通が奔走していました。
この出開帳で金品を寄進したお歴々の名前を列挙した帳面が、成田山には残されています。開帳場に出向いて成田不動尊を礼拝した人々が篤信の証として金品を奉納したわけですが、大名家奥方の名前も見ることができます。
具体的にみていきしょう。
まず、「御幡二掛 稲葉丹後守様御奥方様」とあります。佐倉藩主稲葉正通の正室から幡が二つ奉納されていますが、幡とは法要の場を荘厳供養する際に用いる旗のことです。続けて、「打敷一枚 同御局」とあります。正室付の御局からも、仏具などの敷物が一枚奉納されています。
次に、「御幡二掛 土井甲斐守様御奥方様」とあります。越前大野藩主土井利知の正室も幡を二つ奉納しています。利知の正室は正通の妹でした。
そのほか、伊勢長島藩主増山正弥、小田原藩主大久保忠増、豊前中津藩主小笠原長円の正室たちも幡や打敷を奉納していますが、長円の正室は正通の娘でした。徳川御三家筆頭尾張藩主徳川吉通の正室付の瀬川という奥女中からも打敷が奉納されています。
桂昌院は言うまでもなく、領主稲葉家以外の諸大名から篤信を得たことも成田山の格を高めました。その陰では、正通が姻戚関係を通じて成田不動尊の礼拝を勧めていました。
元禄の出開帳で正通の果たした役割の大きさが改めて確認できるのです。
(2017年4月1日/安藤優一郎・文)

第3話
桂昌院と成田山編

「諸国名所百景下総国成田山境内」[一部](成田山霊光館蔵)

成田山飛躍のきっかけとなった元禄の江戸出開帳の際、成田山はこれ以上ない栄誉に浴します。成田不動尊が江戸城に入ることが許されたのです。将軍徳川綱吉の母桂昌院からの懇望を受けた形でした。
桂昌院は3代将軍徳川家光の側室の一人で将軍となる綱吉を産みますが、仏教に厚く帰依した女性でもありました。寺院の新築や修復にも非常に熱心で、息子の綱吉を動かして東大寺大仏殿の再建活動を支援したのはその一例です。
その陰では、綱吉と桂昌院から厚い信頼を受ける真言宗の僧侶隆光が奔走していました。この時代、隆光の勧めにより生類憐みの令が布告され、犬が非常に大事にされたことは良く知られていますが、東大寺大仏殿再建の立役者でもあったのです。
成田山と隆光のつながりは良くわかりませんが、同じ真言宗ということもあり成田山の江戸出開帳にはたいへん好意的で、成田山と桂昌院を結びつける役割を果たします。隆光が語る成田不動尊の話に興味を示した桂昌院が礼拝を望むに至ったからです。
さすがに、桂昌院自ら開帳場に赴くことはできなかったため、成田不動尊が桂昌院のもとを訪れることになりました。貫首照範に守護された成田不動尊が桂昌院の生活する江戸城三の丸御殿に入ったのは、出開帳終了直後の元禄16年7月4日のことでした。
念願の礼拝が叶った桂昌院は成田不動尊に金品を奉納しましたが、将軍の母からの礼拝を江戸城内で受けた成田山の名前は全国に鳴り響くことになります。そうした栄誉に浴した裏では、隆光のほか成田山の領主でもある老中稲葉正通の奔走もあったと伝えられています。
江戸城に入り将軍の母からの礼拝を受けた事実は、おのづから成田山の格を高めました。江戸出開帳はもちろん、江戸城出開帳も成田山飛躍の大きな理由となったのです。
(2017年3月1日/安藤優一郎・文)

第2話
佐倉藩主堀田家と成田山編

1762年(宝暦12年)佐倉藩主堀田正順から下付された新勝寺の寺領安堵状(成田山霊光館蔵)

佐倉藩は領主の入れ替わりの激しい藩でした。稲葉家が佐倉藩主となる前、10回以上も藩主が交代していましたが、稲葉家も享保8年(1723)に山城の淀にお国替えとなります。稲葉家時代は約20年に過ぎませんでした。 代って淀藩主松平乗邑が佐倉藩主となりますが、延享3年(1746)正月にはお国替えとなり、山形藩主堀田正亮が佐倉に入ります。以後堀田家時代が長く続き、そのまま明治維新を迎えます。
堀田家が佐倉藩主時代の約120年の間に、成田山は8回にわたって江戸出開帳を執り行います。そこで、領主たる堀田家が果たした役割は非常に重要でした。
堀田家も稲葉家と同じく成田山を厚く信仰しましたが、江戸出開帳の時も支援を惜しみませんでした。出開帳を江戸で執り行うには幕府の許可が必要でしたが、十数年に一度の割合で執り行うことが幕府から許され続けた寺院は他に例をみません。
その裏では、老中をはじめ幕府要職者を輩出した譜代大名堀田家の政治力がモノを言ったはずです。そもそも、領主たる堀田家の許可を得なければ幕府に開帳を願い出ることはできませんでした。
堀田家も稲葉家の前例に習って開帳場に藩士を詰めさせましたが、成田村の村民も大勢開帳場に詰めています。出開帳の際には、成田不動尊を守護する大掛かりな行列が組まれましたが、その人数の大半は成田村の村民で占められていました。
江戸到着後は、そのまま開帳場の警備にも当たるため、三か月以上も村を留守にする形になります。これにしても、領主たる堀田家の了解なくして叶うことではありません。
佐倉藩の領民である成田村の人々も、いわば裏方として出開帳の成功に大きく貢献していたのです。
(2017年2月1日/安藤優一郎・文)

第1話
老中(佐倉藩主)稲葉正通と成田山編

「成田土産道中名所 佐くらの入口かしま橋」(成田山霊光館蔵)

成田山が江戸で出開帳を執り行う時の会場は、深川にあった永代寺の境内でした。当時は永代寺境内に鎮座する形だった富岡八幡宮の社殿近くに、成田不動尊を安置する開帳小屋が建てられたのです。二カ月にわたる開帳期間中、開帳場はバラエティーに富んだ参詣者であふれ返りました。
今回から、江戸出開帳の会場を訪れた人々を12回にわたって解説していきます。

成田山が最初に江戸出開帳を執り行ったのは、元禄16年(1703)4月のことです。5代将軍徳川綱吉の治世も終わりに近づいていた頃ですが、綱吉を支えた老中の一人に稲葉正通という大名がいました。正通は3代将軍徳川家光の乳母春日局の曾孫にあたる人物です。
2年前の元禄14年(1701)6月、越後高田から下総佐倉へお国替えとなりました。佐倉藩主稲葉正通の誕生ですが、新領主として最も心掛けたのは領民の心を掴むことでした。
そのため、正通は領民たちが信仰する領内の寺社に対して、堂塔の修理や田畑の寄進をおこなっています。支援という形で崇敬心を示し、領民たちの心を掴もうとしたわけですが、なかでも成田山への支援は群を抜いていました。それだけ、成田山に対する領民からの信仰が厚かったからです。
最初の江戸出開帳の際の支援も並々ならないものがありました。これから何回かに分けてご紹介するように、成田山は将軍の母桂昌院や大名家の奥方からの篤信を得ることに成功します。こうして、開帳場には諸大名の寄進物が所狭しと並べられることとなりました。
開帳中、正通は稲葉家の家臣10名を毎日派遣し、開帳場の警備にあたらせます。正通はもちろん、家臣たちにとっても出開帳は成田不動尊との貴重な結縁の機会であり、成田山との結びつきを強く感じたことでしょう。開帳場は江戸っ子のみならず、佐倉藩からの篤信を得る場となっていました。
この元禄の江戸出開帳を機に、稲葉家では毎年正月、五月、九月の三回、成田山から護摩札を受けるのが慣例となります。出開帳の翌々年にあたる宝永2年(1705)には、成田村50石の土地を寄進しています。
成田山にとり、領主であり老中という幕府の最高権力者でもある稲葉正通からのバックアップを受けたことが大きかったのは言うまでもありません。成田山の飛躍は、元禄の江戸出開帳を通じて佐倉藩からの篤信を得たことにはじまるのです。
(2017年1月1日/安藤優一郎・文)

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