旬をお届け 今月の成田山 成田山の「今」の情報をお届けいたします。

第3話
二宮家の復興で得た信条~分度と推譲の思想

 尊徳が生家の復興に向けて邁進していた頃、対照的に二宮本家は衰退の一途を辿ります。村内有数の豪農だったはずの二宮本家は、当時所有地をほとんど失い、没落していたのです。
 今回は尊徳が本家の再興を通じて得た信条、「分度」「推譲」についてみていきます。
 分家にあたる尊徳の生家が衰退したのは、寛政3年の洪水で家屋や田畑が流されたことに加え、一家の大黒柱を失ったことが理由でしたが、本家の場合は事情が違っていました。いつしか生活が贅沢になったことで、困窮していったのです。
家や田畑を売り払って何とか凌いでいましたが、やがて売るものがなくなり、その日の食事にも事欠く有り様となります。ついには、一族から食べるものを分けてもらうほど窮迫し、破産してしまいました。絶家となり、先祖の菩提を弔う者もいなくなります。
 尊徳は本家の窮状を黙って見過ごせず、生家に加えて本家の復興にも取り組みます。
 尊徳は二宮本家が衰退したのは、「分度」を越えて生活が贅沢になったからであると考えていました。「分度」は尊徳が創り出した概念で、自分の社会的・経済的実力(「分」)を知り、それに応じて生活の限度(「度」)を定めるという意味です。自分の収入の範囲内で節倹に努め、生活を送ることを重視したのです。
この「分度」の概念のもと、尊徳は本家再興に取り組みましたが、節倹だけに努めていても再興は無理です。よって、節倹により得た余剰分などを積み立て、貸付により増殖させることで再興の資金としました。余剰分を将来のために譲った形ですが、これを「推譲」と称しました。
具体的にみていきましょう。
本家の所有地のうち、唯一売れ残って荒地となっていた土地がありました。その土地に竹木を育て、成長した竹を売り払って得た代金に自己資金も加えて、本家再興の基金とします。それを年利15%で貸し付け、基金を増やしたのです。
  その後も、尊徳は自己資金を基金に加えただけでなく、一族にも基金への拠出を促しました。貸付のみならず、変動する米相場に着目して投機を繰り返し、さらなる増殖に努めます。
こうして、尊徳は増殖させた基金をもとに生家のみならず本家の再興に成功します。土地なども買い戻しました。この成功体験から、「分度」と「推譲」を自らの信条とするに至ったのです。

第2話
少年時代の試練~二宮家の没落

 二宮尊徳というと、薪を背負って本を読む姿の二宮金次郎銅像が思い浮かびます。家が貧しく仕事に追われていたため、金次郎少年は寸暇を惜しんで勉学に励んだというわけですが、それは本当だったのでしょうか。
 今回は尊徳の少年時代を追っていきます。
 尊徳の生家は名主などの村役人こそ勤めなかったものの、栢山村では上級クラスの農家です。実際、父利右衛門は約6600坪もの農地を所有し、村内ではかなりの土地持ちでした。利右衛門は二宮家の分家の家柄ですが、二宮本家は栢山村有数の豪農として知られていました。
 割合裕福な家に生まれた尊徳でしたが、寛政3年(1791)に最初の苦難がやってきます。数え年で、尊徳五才の時でした。
 この年の8月、全国を暴風雨が襲います。洪水の被害が各地で続出しましたが、尊徳が住む栢山村の東側を流れる酒匂川も氾濫し、堤防が決壊します。そのため、栢山村をはじめ流域の農村は甚大な被害を被り、尊徳の生家も田畑も流されてしまいます。
 父の利右衛門は家屋の再建と田畑の復興に全力を注ぎますが、心労が重なったためか、寛政8年(1796)に病気で倒れます。その後は、長男の尊徳が弟の面倒をみながら母の好を助けて農作業に励みました。しかし、一家の大黒柱が病床に伏したことで生活苦は免れず、土地の切り売りを余儀なくされます。
 同12年(1799)、父がこの世を去ります。享和2年(1802)には母の好がその後を追い、尊徳は一人で家を支えることになりました。16才になったばかりでしたが、生家の所有地は既に約3分の1にまで減っていました。
 尊徳は弟を母の実家に預け、自分は伯父(父の兄)万兵衛の家に寄宿して生家の復興を目指します。その方法は次のとおりでした。
 そうした積み重ねにより、資金を蓄えた尊徳は土地を買い戻していきます。文化7年(1810)には失った土地を半分ほど回復しました。「積小致大」、すなわち小を積んで大を致すことの大切さも悟ります。
 一連のエピソードからは、尊徳が経済感覚に優れていた様子が窺えますが、この頃は数学の本を夜遅くまで読みふけっていたと伝えられます。尊徳が寸暇を惜しんで勉強していたのは、計算の能力を付けるためでした。読んでいた書物は、数学の教科書だったようです。
こうして、理財の道に明るくなった尊徳は生家の復興に向けて着実に歩みはじめます。

第1話
二宮尊徳が生まれた時代~江戸後期の関東農村

 成田山には歴史に名を残す偉人たちが数多く参詣していますが、篤農家として知られる二宮尊徳もその一人です。
 当時、ある苦難に直面していた尊徳は成田山に参籠して21日間の断食修業を行い、その後の人生における新たな指針を得ます。文政12年(1829)のことでした。現在、境内の水行堂の横には「二宮尊徳開眼の地」という石碑も立っています。
 今回から、成田山参詣により人生が大きく変わった二宮尊徳の生涯を追っていきます。
 天明7年(1787)に、二宮金次郎こと尊徳は現在の神奈川県小田原市にあたる相模国足柄上郡栢山村で農民二宮利右衛門と妻の好(よし)の長男として生まれました。そして、安政3年(1856)に70才で生涯を終えます。金次郎が通称で、尊徳と名乗ったのは天保13年(1842)のことです。
 今回は、尊徳が生まれた時代について解説していきましょう。
 尊徳が生まれた時代は江戸三大飢饉の一つに数えられる「天明の大飢饉」により、農民たちが飢えに苦しんだ時に当たります。尊徳が生まれ育った関東は、冷害のため作物の生育が非常に悪く大凶作となりました。それに拍車を駆けたのが、天明3年(1783)の浅間山大噴火でした。
 年貢の負担に耐え兼ねた農民たちが逃げ出す事例は跡を絶たず、農村の人口は減少の一途を辿ります。耕す農民を失った農地が荒廃するのは時間の問題でした。
 となると農業生産量は減っていきますが、最も影響を受けたのは米でした。米価は高騰し、農民のみならず都市に住む町人たちも飢えに苦しみます。
 ついに、全国各地で米騒動が起きましたが、その社会現象は、「天明の打ちこわし」と呼ばれています。将軍のお膝元の江戸でも、尊徳が生まれた天明7年に米の安売りを求める騒動が起き、幕府に強い衝撃を与えます。
 事態を危険視した幕府は、将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信を老中に抜擢し、寛政改革と称される政治改革を断行します。その柱の一つが農村の復興でした。幕府の農政の大きな課題となります。
そんな時代に生まれ育ったのが尊徳でした。農村復興が叫ばれるなか、成長した尊徳はその課題を自らのミッションとして生きていくことになります。

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成田山と二宮尊徳