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江戸出開帳

第1話
老中(佐倉藩主)稲葉正通と成田山編

広重画『成田土産道中名所 佐くらの入口かしま橋』(成田山霊光館蔵)

成田山が江戸で出開帳を執り行う時の会場は、深川にあった永代寺の境内でした。当時は永代寺境内に鎮座する形だった富岡八幡宮の社殿近くに、成田不動尊を安置する開帳小屋が建てられたのです。二カ月にわたる開帳期間中、開帳場はバラエティーに富んだ参詣者であふれ返りました。
今回から、江戸出開帳の会場を訪れた人々を12回にわたって解説していきます。

成田山が最初に江戸出開帳を執り行ったのは、元禄16年(1703)4月のことです。5代将軍徳川綱吉の治世も終わりに近づいていた頃ですが、綱吉を支えた老中の一人に稲葉正通という大名がいました。正通は3代将軍徳川家光の乳母春日局の曾孫にあたる人物です。
2年前の元禄14年(1701)6月、越後高田から下総佐倉へお国替えとなりました。佐倉藩主稲葉正通の誕生ですが、新領主として最も心掛けたのは領民の心を掴むことでした。
そのため、正通は領民たちが信仰する領内の寺社に対して、堂塔の修理や田畑の寄進をおこなっています。支援という形で崇敬心を示し、領民たちの心を掴もうとしたわけですが、なかでも成田山への支援は群を抜いていました。それだけ、成田山に対する領民からの信仰が厚かったからです。
最初の江戸出開帳の際の支援も並々ならないものがありました。これから何回かに分けてご紹介するように、成田山は将軍の母桂昌院や大名家の奥方からの篤信を得ることに成功します。こうして、開帳場には諸大名の寄進物が所狭しと並べられることとなりました。
開帳中、正通は稲葉家の家臣10名を毎日派遣し、開帳場の警備にあたらせます。正通はもちろん、家臣たちにとっても出開帳は成田不動尊との貴重な結縁の機会であり、成田山との結びつきを強く感じたことでしょう。開帳場は江戸っ子のみならず、佐倉藩からの篤信を得る場となっていました。
この元禄の江戸出開帳を機に、稲葉家では毎年正月、五月、九月の三回、成田山から護摩札を受けるのが慣例となります。出開帳の翌々年にあたる宝永2年(1705)には、成田村50石の土地を寄進しています。
成田山にとり、領主であり老中という幕府の最高権力者でもある稲葉正通からのバックアップを受けたことが大きかったのは言うまでもありません。成田山の飛躍は、元禄の江戸出開帳を通じて佐倉藩からの篤信を得たことにはじまるのです。
(2017年1月1日/安藤優一郎・文)

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