旬をお届け 今月の成田山 ひとこと説法「今月のひとこと説法」
江戸出開帳

今月のひとこと説法

新年を迎え、成田山には大勢のご信徒が初詣してお不動さまへ年頭の祈りを捧げています。一日の計を朝に求め、一年の計を元旦に求めるのは古今変わりなく、願いに併せて「今年は…」「今年こそは…」と昨年果たせなかった目標をお不動さまに誓われている方も多いことと存じます。しかし、思い返してみれば、固かった決意も困難にぶつかって挫けたり、思ったような結果を出せず、気付かぬうちに決心も薄れて一年が終わる。心当たりのある人も居られることでしょう。
心というものは絶えず揺れ動くものです。
お不動さまは堅い石の上にお座りになり、人びとを救い導こうとする揺るぎのない決意と、燃えさかる火炎でひたすら精進し続けることの大切さを私たちに示されています。私たち不動尊信仰者は、この御教えを一日一日実践し、積み重ねていくことで、実りある一年とすることができます。
お釈迦さまの言葉を集めた経典『法句経』の一節に「屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い」とあります。毎日を精一杯取り組み、平成29年を輝かしい一年にしたいものです。
(2017年1月1日)

今月のひとこと説法

師走の声を聞けば、過ごして来た一年に思いを巡らせ、我が身を顧みられる方も多いことと存じます。私たちは日々の暮らしの中で、忙しさに追われるあまり、いつしか自己中心の考え方に陥りがちです。我が身のかわいさから自分の嫌な部分に目をつむり、思い遣りの欠けた言葉で誰かを傷つける。思い当たる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
お釈迦様の御教えの一つに「四無量心」があります。慈・悲・喜・捨という四種の心の境地で、言い換えれば、仏が生命ある全てのものに対して持つ、あわれみの心です。慈は生きとし生けるものに楽を与えること、純粋の真愛でもあります。悲は他者へのいたわりを意味し、苦しみを抜くこと。喜は他者の喜びをもって己の喜びとすること。捨は一切を捨て去り、誰に対しても平等であることです。
この四種の心の境地は簡単に会得出来る物ではありませんが、心がけて生活することで平安な毎日へと繋がります。繰り返す日々の中で、本来清浄な本当の自分を見失うことなく、輝かしい新年を迎えたいものです。
(2016年12月1日)

今月のひとこと説法

11月、立冬を迎えると季節はいよいよ冬になり、燃えるように真っ赤に染まった紅葉もやがて色を失いはらはらと散っていきます。枯葉が散っていく情景は見る人にさびしさや悲しさを感じさせます。しかし、木々にとって枯れた葉を落とすという行為は、水分や栄養を調整するためであり厳しい冬の寒さと乾燥を生き抜く知恵なのです。こうした生きる力は、私たち人間にも備わっているそうです。今年、ノーベル生理学・物理学賞を受賞した東京工業大学大隅良典名誉教授は、細胞の持っているオートファジーの仕組みを解明しました。貧環境の中で生き残るために自らが活動の活性を下げるという自然界のはたらきが、人間の細胞レベルにまで組み込まれているといいます。
赤々としていた葉が枝から離れていく様子は、生命が力強く生きんとする姿そのものです。尊い生命の根源にある生きる力に感謝しつつ冬の季節を迎えましょう。
(2016年11月1日)

今月のひとこと説法

成田山では十月と十一月に七五三祝祷を行っています。七五三は子どもの成長をお祝いし、さらなる健やかな成長を祈る儀式です。
現在は通過儀礼のひとつというイメージですが、かつて乳児死亡率が高かった時代には、どうにか三歳になった、やっと五歳まで成長した、ようやく七歳を迎えられたと成長した我が子の命を祝う親にとって、この上ない慶びの行事でした。
どの親も子どもの成長を慶びますが、成長は「老い」のひとつの形といえます。こう見ると一般的に幼児の「老い」はプラスに、老人の「老い」はマイナスに考えられ、私たちが時と場合によって自分勝手に解釈して喜んだり悩んだりしていることがわかります。
お不動さまが右手に持する利剣は、私たちの偏った考え方やこだわりを断ち切り、正しい道へと導いてくださいます。思い込みや偏見にとらわれず、ありのままを受け入れることができれば、これまでと違った「老い」の見方ができるでしょう。
成田山境内が七五三でにぎわうこの時期、元気な子どもたちの姿を見て、「老い」について考え直す機会にしてみませんか。
(2016年10月1日)

今月のひとこと説法

「名月や池をめぐりて夜もすがら」(芭蕉)
今宵の名月を池に映すなどして楽しんでいるうちに、いつのまにか夜を徹してしまうことになった。

「名月の花かと見へて綿畠(わたばたけ)」(芭蕉)
名月のもと、白くはじけた綿の実が月光に照らされて、まるで花のように見える。

中秋の夜長に月を観賞しながら、縁側や床の間へススキや団子、里芋、秋の果物などを月にお供えして、収穫への感謝と明年の豊穣を祈る、お月見の時期となりました。月といえば、真言宗の修行の一つに「月輪観(がちりんかん)」という瞑想法があります。
「月輪観」とは、満月が「かけたもののない完全なもの」ということから、瞑想によって自己のストレスや固定観念から解放され、より清らかで澄みきった心が満月に近づくということを表しています。
澄みきった満月を深く瞑想することにより、私たち一人ひとりの中にある清浄な心が深まり、月と心が一体となったとき悟りが実現する、「神秘の行(ぎょう)」と言われています。
自己を見つめて、お参り月である9月を過ごしましょう。
(2016年9月1日)

今月のひとこと説法

8月に入ってまもなくすると多くの地域でご先祖さまをお迎えするお盆の準備に入られることと思います。誰もが経験した夏休みの思い出は、両親の故郷でのお墓参りや盆踊りに参加したりと様々ではないでしょうか。
お盆の起源を示したひとつにお釈迦さまが餓鬼道に落ちた目蓮尊者の母を救う手立てのお話があります。それは、僧侶が雨期に行う修行を終えた7月15日に僧侶や過去七代の父母と産み育ててくれた両親、困っている人々を施し、その功徳によって母親を餓鬼道から救うことができたというお話です。
お釈迦さまは亡くなった父母や七代の父母を思い、毎年7月15日に仏と僧、多くの人々に供養し、限りない愛情を注ぎ育ててくれた父母の慈愛に報いなさいと説かれました。
今なお、日本においてお盆の風習が絶えないのは、父母の恩が変わらず私たちの心の支えであるからです。お盆休みには、ご先祖さまに感謝の気持ちを込めて供養し、今生かされている命のありがたさに思いを馳せるひとときをお持ち下さい。
(2016年8月1日)

今月のひとこと説法

2016年2月タイトル

「出た出た月が」の歌い出しで知られる、唱歌『月』の「盆のような月」とは、満月を食器などを運ぶ、あの「お盆」に喩えたもので、年中行事の「お盆」とは異なるものです。
年中行事のお盆は、梵語のウランバナ(ullambana)を音写したとされ、「盂蘭盆(うらぼん)」と言うのが正式で、『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』によれば「盂蘭盆」は7月15日とされます。
現在「お盆」というと、新暦7月15日と新暦月遅れの8月15日、旧暦7月15日のお盆(平成28年は8/17)があります。地域によってそのいずれかを採用し、あるいは地域独特の日取りもあるようです。
日本の暦は、明治以前は太陰太陽暦(たいいんたいようれき)(旧暦)を用い、15日周期で朔望(さくぼう)を繰り返えす「月」の動きにより、月日を定めておりました。したがって、旧暦7月15日は、およそ満月になるのです。
江戸時代までは、お盆にご先祖様をお迎えし家族と夕餉(ゆうげ)を囲むとき、「まるいまるい まんまるい」お月様が、夜空でその様子を見守ってくれました。
あながち「盆のような月」と、まったく無関係とも言えないのでは?
(2016年7月1日)

今月のひとこと説法

2016年2月タイトル

慶長16年6月4日、真田十勇士で有名な真田幸村の父、真田昌幸は蟄居の地「九度山」にて、65歳の生涯を閉じられたそうです。
九度山とは、高野山麓の地名で弘法大師ゆかりの地であり、女人高野として知られています。この九度山のお寺の御本尊は弥勒菩薩ですが、この弥勒菩薩には金襴の袈裟衣にまつわる大事なお話が伝えられております。あるとき釈尊の姥母・大愛道が自ら縫製した金襴衣を喜捨しようとしたところ、釈尊は自分一人だけではなく修行僧全員に与えるようにと諭されますが、その施しを受ける者がなかなか現れません。そしてついに弥勒菩薩がこれを被着することになりました。釈尊はそれを知り、弥勒菩薩に授記(次の生での成仏を約束すること)されたとのことです。
この金襴の衣を身に纏うことは、法の正当な継承を意味するとともに修行に対する決意の堅固さを示しているものです。成田山の大護摩修行では、大本堂で修法する導師は必ず金襴の袈裟衣を被着することになっております。一見絢爛豪華で贅沢に見えますが、実のところは正当な教えを受け継いで精進修行している姿なのです。
(2016年6月1日)

今月のひとこと説法

2016年2月タイトル

成田山新勝寺での御護摩や法要で必ず唱えるお経に、『大楽金剛不空真実三昧耶経 般若波羅蜜多理趣品』略して『般若理趣経』があります。特に真言宗で、大切にされているお経です。

『般若理趣経』では、この世界とそこに住む私たちが本来清らかであることを説いています。私たちは栄華や成功を欲し求め、衰亡や失敗は嫌って目を背けようとします。しかし仏さまが見れば、栄華と衰亡に差は無く、どちらも世界のあらわれ方のひとつに過ぎません。それに一喜一憂するのは、私たちの迷いのためなのです。

願いがかなえば成功といって喜び、かなわなければ失敗として落胆するのも、心の惑いに過ぎません。成功しても失敗しても、どちらもこの世のあらわれとして素直に受け入れれば、経験は将来への糧となって活かすことができるでしょう。つらい時にはお不動さまの耐え忍ぶ姿を想い、心を惑わさずに生きてまいりましょう。
(2016年5月1日)

今月のひとこと説法

2016年2月タイトル

4月は仏教をお開きになられたお釈迦さま誕生の月です。成田山では1日から8日まで釈迦堂前の花御堂で潅仏会を行い、3日に表参道や大本堂前を舞台に花まつり祝賀パレードを開催。御誕生の日である8日には釈尊降誕会法要を厳修してお祝いします。お釈迦さまは、父を釈迦族の君主シュッドーダナ王、母をマーヤ妃とし、生まれるや六方に向かって各々7歩あゆみ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといいます。
この言葉は、「自分一人が尊い」という意味ではなく、自分が尊い存在であるように他の全ての存在も同じように尊いものであるという教えです。
仏教は、生命の尊さと他を思いやる心を第一とします。
草花が芽吹き、生命の力を感じる4月。心ゆくまで仏さまと向き合い、いのちの尊さを感じましょう。
(2016年4月1日)

今月のひとこと説法

輝きに満ちた一年を

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり  高濱虚子

桜花爛漫を迎える3月。日本人にとって春は物事のはじまりや再生を象徴する特別な季節です。
桜は日本の国花であり、日本人が最も愛する花です。染井吉野や山桜、八重など多くの品種がありどれも私たちに親しみ深いものです。殊に、花びらを豊かに広げる満開の桜からは命の輝きと生きる喜びを感じます。
毎年、粛々と開花し胸一杯の感動をあたえてくれる桜。無心に咲く満開の桜の花は私たちに「今を精一杯生きよ、命を輝かせよ」と諭してくれています。
このお諭しもまた、苦しみの中に生きる私たちに差しのべられた御本尊不動明王の慈悲の御手でありましょう。
(2016年3月1日)

今月のひとこと説法

輝きに満ちた一年を


2月は冬至と春分の間でまだ寒い日が続きますが、暦の上では春になります。 梅の花が咲き、暖かくなり、春の訪れを感じる季節でもあります。
特に立春は、一年の始めとされて様々な節目ということでは、この日が起点となっており、よく口にされる「立春大吉」とは描かれた文字が左右対称で、非常に縁起がいいもいので、1年間災難にあわないと言われています。また2月には節分がありますが、まさに季節においても節目で、いよいよ春が来る気配を感じる季節です。
それぞれの抱負をもって一年が始まりましたが、今一度、自分なりに節目を感じて顧みることで、前進することに繋がると思います。俗にいうターニングポイントというものを楽しんでみるのも、今までのもの捉え方が変わることでもあり、違った自分を見つける機会でもあると思います。
まだまだ寒い日が続いておりますが、この2月節目を体感し、今一度立ち止まり自分を見つめ直し、顧みては如何かと存じます。
(2016年2月1日)

今月のひとこと説法

輝きに満ちた一年を

平成28年<丙申歳>の新春を迎え、御本尊不動明王の御加護のもと今ここに生かされ、いのちあることに心から感謝いたします。
真言宗では、勤行(おつとめ)の際、「人身受け難し、今すでに受く。佛法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に度せずんば、更にいずれの生においてか、この身を度せん。」というお経の一節をお唱えしております。
私たちは数え切れないほどの先祖の縁や父母の縁を得てこの世に生まれ、今、この一生の中でこのような尊い仏の教えにこのように出会っています。しかし、苦しみと迷いに満ちたこの世では、なかなか尊い仏の教えにも出会うことができず、せっかくいただいた命もなかなか輝きあるものにできずにいます。
仏教は、生老病死の苦海に生きる私たちを幸せに導く仏の教え。成田山の御本尊不動明王は、その教えによって私たちをこの世の苦しみから救ってくださる智慧と慈悲の仏さまです。
大勢の善男善女が寺院に初詣する正月。どうか皆さまもお誘い合わせのうえ、成田山に初詣いただき、大本堂の御護摩祈願におまいりして御仏の教えに触れ、不動明王に一年の御加護を祈り、この世に生きている「今生」で幸せと輝きに満ちた人生とならんことをお祈りください。

(2016年1月1日)

12月のひとこと説法

今月のひとこと説法

12月8日は、お釈迦様が悟りをひらかれた日です。
寺院ではこの日を記念してお釈迦さまへの仏恩感謝の成道会という法要を行います。
今からおよそ2500年前、お釈迦さまは現在のネパール南部のルンビニーでお生まれになりました。将来は国王の座を約束されておりながら29歳の時に自らその地位を棄て、かねてから悩んでおられた人間の不安と苦しみの根元を解決すべく、出家の身となって修行に入られました。六年間にわたる苦行と、深い瞑想を繰り返し、12月8日の未明、東の空に美しく輝く明けの明星をご覧になり、ついに人生における悟りを開かれたのです。 お釈迦さまは次のようにおっしゃられました。『奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆如来の智慧、徳相を具有す、ただ妄想執着ある故に証得せず』。つまりすべての人は皆もともと清らかな「仏の心」を持っている。しかしながら執着することで人生に迷い、この「仏心」を備えている本当の自分に気づかないでいる』と。
混迷する現代社会にあって、自分の本性に目覚めることが、今一番大切なのです。私達も心静かに己を見つめ、お釈迦さまのさとりの心に触れてみましょう。

(2015年12月1日)

11月のひとこと説法

今月のひとこと説法

暑かった夏も盛りを過ぎて、成田山公園の木々も濃い緑から深い赤へと染まりゆく季節になりました。木々の間を抜ける小川の水も輝きを増し、流れゆく姿に目を向ければ何とも言えない清々しさを感じさせてくれます。古来、万物にその恩恵を与えてくれる水に関する故事やことわざは数多く、仏教においても「一水四見(いっすいしけん)」という教えが伝わっています。
一水四見とは、同じ水でも人間にとっては飲み水、魚にとっては己の住処、天人にとっては水晶の床、餓鬼にとっては燃え上がる膿というように、住む世界によって見え方が違うことを表した言葉です。
私たち一人ひとりには、それぞれ立場や主張、個性があります。この世のどこにも自分と全く同じ人はいません。それは素晴らしいことですが、時として他者との諍いの種になることもあります。仲の良い友人、あるいは親子、夫婦関係であっても自我に執着することで相手との不和を起こすというのは悲しいことです。
川の流れをよく見れば、水は遮るものがあっても、逆らわずすべてを包み込み、しかも自らの道を失いはしません。一水四見とは、あたかも自分を見失うことなく相手の立場になる、思いやりの心の大切さを教えているのではないでしょうか。
自然はただそこにあるだけです。しかし、こちらの見方を少し変えた時、移ろいゆく自然は様々な事柄を教えてくれます。遮るものをも優しく包み込む、水のような心を持ちたいものです。

(2015年11月1日)

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