開山縁起
1
寛朝が朱雀天皇の勅命を受け不動明王とともにに関東へ
平安時代、平将門の乱が起こり
世の中に不安と混乱が満ちる
939(天慶2)年、関東の武将・平将門が新皇を名乗って朝廷と敵対し、戦乱が起こります。乱世の中で人びとは、不安と混乱にさらされていました。
不動明王ご尊像とともに
寛朝が関東へ
朱雀天皇の勅命により、寬朝が弘法大師空海が敬刻開眼されたという高雄山神護寺の不動明王ご尊像を捧持して関東へ出発。難波の港から船に乗り、房総半島の尾垂ヶ浜に上陸します。
開山縁起
2
「新たに勝つ」新勝寺の寺号を賜り
関東守護霊場として成田山が開山
成田の地にて護摩の祈祷を行い
結願の日に将門の乱が終息
寛朝は成田の地にご尊像を奉安し、21日間にわたって護摩を焚いて乱の終息を祈願します。結願の日に平将門が敗れ、関東の地に再び平和が訪れます。
不動明王のご霊告を受け
成田山新勝寺が開山
寛朝が都へ帰ろうとしたところ、ご尊像が磐石のごとく動かず、不動明王から「この地に留まり人びとを救う」というご霊告を受けます。このことを朱雀天皇にお伝えすると「新勝寺」の寺号を賜り、成田山新勝寺が開山されたのです。
開山縁起
3
江戸の出開帳をきっかけに
民衆の絶大な信仰を集める
百万人都市「江戸」で
ご本尊不動明王を出開帳
元禄時代、ご本尊を江戸に運んで参拝を得る出開帳を奉修。成田山不動明王に深く帰依する歌舞伎役者、市川團十郎が不動明王の芝居をうったこともあいまって、江戸は庶民の絶大な信仰を集めました。
益々興隆し現代に続く
成田不動への信仰
成田山への信仰はさらに興隆し、今では日本屈指の祈願所となりました。歴代の市川團十郎も成田不動への信仰を継承し、昔と変わらず成田屋の屋号を名乗って歌舞伎の技を守り続けています。
開山の祖
寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)
寬朝は916年(延喜16)年に敦実新王の第二子として生まれ、宇多天皇の孫にあたります。11歳で出家され、仁和寺・東大寺・西寺の別当、東寺の長者を歴任。986(寛和2)年に行基菩薩・慈恵大師良源上人に次いで日本で3人目の、真言宗では初の大僧正になられました。仏典に節をつけて唱える声明の第一人者でもありました。
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平安時代の開山から、現在に至るまで1070年余の成田山新勝寺の歴史をご紹介