旬をお届け 今月の成田山 成田山の「今」の情報をお届けいたします。

第5話
下野国桜町陣屋での苦難~農民たちの抵抗

 文政4年(1821)、小田原藩主大久保忠真は分家の旗本宇津家の所領見分を尊徳たち領民に命じます。宇津家の所領は現在の栃木県真岡市に当たる下野国芳賀郡桜町にあり、桜町領と呼ばれていました。
宇津家の家臣が桜町に派遣されて年貢の徴収にあたりましたが、領内の農村は荒廃していました。宇津家単独ではその復興が果たせず、本家の大久保家が乗り出すことになります。 今回は下野国桜町で尊徳が農村復興に苦闘する姿をみていきます。
天明の大飢饉は関東農村を荒廃させ、その復興が幕府の寛政改革の柱の一つにもなりましたが、思うような成果はなかなか挙げられませんでした。下野の宇津家所領も大半が荒地のままでした。
 よって、小田原藩は尊徳たち有能な農民をして桜町領の実地検分をさせ、まずは復興が可能かどうかを調査させます。その結果、尊徳が現地で復興に当たる運びとなりました。
 早速、尊徳は復興計画案の作成に取り掛かります。今後10年間の年貢量を定額とし、豊作でそれを越えた年貢徴収が可能な時は、その分を復興基金とするというのが趣旨でした。そして、所有していた田畑などの財産を処分し、現地に着任します。農村復興が「救民安国」、すなわち農民を救済して国家を安泰にすることにつながるという信念のもと、私財を投じて復興事業に取り組もうとしたのです。
 37才になっていた尊徳が妻子とともに桜町領に向かったのは、同6年(1823)3月のことでした。
 尊徳は貸付により基金の増殖につとめるとともに、復興に努力した農民を表彰するなどの施策も並行して採用します。復興へのモチベーションを高めようとしたのです。荒地開発のための援助、用水の整備、家作や屋根葺き替えの助成、後救米金の支給など復興対策は多岐にわたりました。
 しかし、桜町領の現場責任者とも言うべき名主など村役人たちは、尊徳の指示になかなか従おうとはしませんでした。現地の農民たちからすると、余所者である尊徳に指示されることへの反発は抑えられなかったようです。
 尊徳は藩命を楯に改革に抵抗する村役人を従わせようとしますが、そうした姿勢はさらなる抵抗を引き起こすだけでした。尊徳による復興は暗礁に乗り上げます。
 現地のサボタージユに直面した尊徳は苛立つともに、どうすればよいのか悩みます。これでは職務は全うできないと考えた尊徳は、ある決断に至ります。
 文政12年(1829)1月4日、江戸を行くと称して、桜町領から突然姿を消してしまったのです。向かった先は成田山でした。尊徳は43才になっていました。

第4話
小田原藩に召し出される~救民安国への道

 生家の復興に目途が立った文化8年(1811)より、尊徳は小田原城下に出て武家奉公を開始します。農地はすべて小作に出し、自身は武家奉公人として給金を稼ぐ一方、城下で米の取引を行い、本家再興用の基金を増やしました。
 その過程で理財の道にいっそう通じていきますが、領主の小田原藩は領民でもある尊徳の手腕に目を付けます。
 今回は尊徳が小田原藩に召し出されるまでの経緯を追います。
 奉公したのは家老の服部家でしたが、尊徳は屋敷に住み込みで働きながら米取引のほか、城下近郊農村の私有林を買い取り、薪を取って城下で売り捌きました。本家再興の基金を元手とした貸付業も活発に展開します。小作料も尊徳の懐に入っていました。その結果、文政4年(1821)には所有地の規模も9000坪近くとなります。 この頃、妻も迎えています。
 そんな尊徳の手腕に、奉公先の主人である家老服部家は注目します。服部家も家計は火の車で、借財が増える一方でした。よって、尊徳をして財政再建に当たらせようと考えます。
 最初は尊徳が作成した家政改革案に基づき、服部家の家臣が財政再建に取り組みます。しかし、うまく行かず、逆に借財が増えてしまいました。そのため、文化14年(1817)より、尊徳自ら財政再建に当たります。
 二宮本家再建の際の手法と同じく、節倹を通じて得た余剰金を元手に貸付を行うとともに、服部家を通して運動し、小田原藩をして低利の公的貸付制度を創設させます。藩の公金に加えて領内の豪商や豪農から拠出させた資金をもって基金(「五常講金」)とし、低利(8%) で藩士に貸し付ける制度が小田原藩で生まれたのです。
尊徳は低利の貸付制度も活用することで、一気に服部家の債務を整理します。あとは、藩から低利で借りた債務を返済すれば、財政再建は完了することになるわけです。
 小田原藩を巻き込む形で服部家の債務を整理した尊徳の手腕は藩内に知れ渡ります。藩主の大久保忠真も知るところとなり、大久保家の分家で旗本宇津家の財政再建を命じられるきっかけとなりました。
 この藩命が、成田山と尊徳を結び付けるのです。

第3話
二宮家の復興で得た信条~分度と推譲の思想

 尊徳が生家の復興に向けて邁進していた頃、対照的に二宮本家は衰退の一途を辿ります。村内有数の豪農だったはずの二宮本家は、当時所有地をほとんど失い、没落していたのです。
 今回は尊徳が本家の再興を通じて得た信条、「分度」「推譲」についてみていきます。
 分家にあたる尊徳の生家が衰退したのは、寛政3年の洪水で家屋や田畑が流されたことに加え、一家の大黒柱を失ったことが理由でしたが、本家の場合は事情が違っていました。いつしか生活が贅沢になったことで、困窮していったのです。
家や田畑を売り払って何とか凌いでいましたが、やがて売るものがなくなり、その日の食事にも事欠く有り様となります。ついには、一族から食べるものを分けてもらうほど窮迫し、破産してしまいました。絶家となり、先祖の菩提を弔う者もいなくなります。
 尊徳は本家の窮状を黙って見過ごせず、生家に加えて本家の復興にも取り組みます。
 尊徳は二宮本家が衰退したのは、「分度」を越えて生活が贅沢になったからであると考えていました。「分度」は尊徳が創り出した概念で、自分の社会的・経済的実力(「分」)を知り、それに応じて生活の限度(「度」)を定めるという意味です。自分の収入の範囲内で節倹に努め、生活を送ることを重視したのです。
この「分度」の概念のもと、尊徳は本家再興に取り組みましたが、節倹だけに努めていても再興は無理です。よって、節倹により得た余剰分などを積み立て、貸付により増殖させることで再興の資金としました。余剰分を将来のために譲った形ですが、これを「推譲」と称しました。
具体的にみていきましょう。
本家の所有地のうち、唯一売れ残って荒地となっていた土地がありました。その土地に竹木を育て、成長した竹を売り払って得た代金に自己資金も加えて、本家再興の基金とします。それを年利15%で貸し付け、基金を増やしたのです。
  その後も、尊徳は自己資金を基金に加えただけでなく、一族にも基金への拠出を促しました。貸付のみならず、変動する米相場に着目して投機を繰り返し、さらなる増殖に努めます。
こうして、尊徳は増殖させた基金をもとに生家のみならず本家の再興に成功します。土地なども買い戻しました。この成功体験から、「分度」と「推譲」を自らの信条とするに至ったのです。

第2話
少年時代の試練~二宮家の没落

 二宮尊徳というと、薪を背負って本を読む姿の二宮金次郎銅像が思い浮かびます。家が貧しく仕事に追われていたため、金次郎少年は寸暇を惜しんで勉学に励んだというわけですが、それは本当だったのでしょうか。
 今回は尊徳の少年時代を追っていきます。
 尊徳の生家は名主などの村役人こそ勤めなかったものの、栢山村では上級クラスの農家です。実際、父利右衛門は約6600坪もの農地を所有し、村内ではかなりの土地持ちでした。利右衛門は二宮家の分家の家柄ですが、二宮本家は栢山村有数の豪農として知られていました。
 割合裕福な家に生まれた尊徳でしたが、寛政3年(1791)に最初の苦難がやってきます。数え年で、尊徳五才の時でした。
 この年の8月、全国を暴風雨が襲います。洪水の被害が各地で続出しましたが、尊徳が住む栢山村の東側を流れる酒匂川も氾濫し、堤防が決壊します。そのため、栢山村をはじめ流域の農村は甚大な被害を被り、尊徳の生家も田畑も流されてしまいます。
 父の利右衛門は家屋の再建と田畑の復興に全力を注ぎますが、心労が重なったためか、寛政8年(1796)に病気で倒れます。その後は、長男の尊徳が弟の面倒をみながら母の好を助けて農作業に励みました。しかし、一家の大黒柱が病床に伏したことで生活苦は免れず、土地の切り売りを余儀なくされます。
 同12年(1799)、父がこの世を去ります。享和2年(1802)には母の好がその後を追い、尊徳は一人で家を支えることになりました。16才になったばかりでしたが、生家の所有地は既に約3分の1にまで減っていました。
 尊徳は弟を母の実家に預け、自分は伯父(父の兄)万兵衛の家に寄宿して生家の復興を目指します。その方法は次のとおりでした。
 そうした積み重ねにより、資金を蓄えた尊徳は土地を買い戻していきます。文化7年(1810)には失った土地を半分ほど回復しました。「積小致大」、すなわち小を積んで大を致すことの大切さも悟ります。
 一連のエピソードからは、尊徳が経済感覚に優れていた様子が窺えますが、この頃は数学の本を夜遅くまで読みふけっていたと伝えられます。尊徳が寸暇を惜しんで勉強していたのは、計算の能力を付けるためでした。読んでいた書物は、数学の教科書だったようです。
こうして、理財の道に明るくなった尊徳は生家の復興に向けて着実に歩みはじめます。

第1話
二宮尊徳が生まれた時代~江戸後期の関東農村

 成田山には歴史に名を残す偉人たちが数多く参詣していますが、篤農家として知られる二宮尊徳もその一人です。
 当時、ある苦難に直面していた尊徳は成田山に参籠して21日間の断食修業を行い、その後の人生における新たな指針を得ます。文政12年(1829)のことでした。現在、境内の水行堂の横には「二宮尊徳開眼の地」という石碑も立っています。
 今回から、成田山参詣により人生が大きく変わった二宮尊徳の生涯を追っていきます。
 天明7年(1787)に、二宮金次郎こと尊徳は現在の神奈川県小田原市にあたる相模国足柄上郡栢山村で農民二宮利右衛門と妻の好(よし)の長男として生まれました。そして、安政3年(1856)に70才で生涯を終えます。金次郎が通称で、尊徳と名乗ったのは天保13年(1842)のことです。
 今回は、尊徳が生まれた時代について解説していきましょう。
 尊徳が生まれた時代は江戸三大飢饉の一つに数えられる「天明の大飢饉」により、農民たちが飢えに苦しんだ時に当たります。尊徳が生まれ育った関東は、冷害のため作物の生育が非常に悪く大凶作となりました。それに拍車を駆けたのが、天明3年(1783)の浅間山大噴火でした。
 年貢の負担に耐え兼ねた農民たちが逃げ出す事例は跡を絶たず、農村の人口は減少の一途を辿ります。耕す農民を失った農地が荒廃するのは時間の問題でした。
 となると農業生産量は減っていきますが、最も影響を受けたのは米でした。米価は高騰し、農民のみならず都市に住む町人たちも飢えに苦しみます。
 ついに、全国各地で米騒動が起きましたが、その社会現象は、「天明の打ちこわし」と呼ばれています。将軍のお膝元の江戸でも、尊徳が生まれた天明7年に米の安売りを求める騒動が起き、幕府に強い衝撃を与えます。
 事態を危険視した幕府は、将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信を老中に抜擢し、寛政改革と称される政治改革を断行します。その柱の一つが農村の復興でした。幕府の農政の大きな課題となります。
そんな時代に生まれ育ったのが尊徳でした。農村復興が叫ばれるなか、成長した尊徳はその課題を自らのミッションとして生きていくことになります。

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成田山と二宮尊徳